受験勉強法学 Examics

すべての教科に通じる論理的思考については、LAADを参照せよ。[説明詳細]

■勉強法コラム

受験勉強を始める前に2:科学的とは―入試との関係―

 高校の各教科が、大学で科学を学ぶための前提になっているが、同時に高校の各教科は長年学問が検証して体系化してきた知の簡略化したものだったり、結論部分のみを集めたものだったりする。そこで科学が、どれだけ厳密であり、かつ同時に不備があるか、何をしているかを知ることによって、高校での学習の位置付けを考えてみたい。


2-1.科学的に問うことの目的

 科学の問いの目的には、存在を発見し、起源を探求し、過程を解明し、そして原理を応用することにある。

 存在の発見とは、あるものが存在することを見つけ出すもことだ。物質的なものから現象まで、とにかく何かしら未知なるものを発見することだ。これは観測や実験のみによらず、論理的に推論していくことで存在を予言することも含まれ得る。

 起源の探求とは、現在すでに知られているものがどのようにして形成されたかを探ることだ。例えば、どのようにして日本列島が形成されたかがある。歴史的な探索が必要になることも多い。

 過程の解明とは、物質生成や現象発生の過程を明らかにすることだ。これは起源の探求でも必要となることが多いが、必ずしも起源の探求を伴うとは限らない。例えば、熱をどのように伝えるかは起源の探求なしに問える。

 原理の応用とは、基本的な原理を応用して、技術的に活用することだ。例えば、放射性炭素年代測定は動植物の遺骸から年代を測定するのに用いられているが、これは自然の中では放射性同位体の炭素14の存在比率が一定に保たれている原理を応用している。原理の応用は科学技術と関係するものが多い。

 これら4つの問いは単独で行われることもあれば、相互に関係することもある。そしてある問いに対して答えが得られると、連鎖的に新たな問いが発生する。このように「なぜ」を繰り返しながら科学は発展していく。
 また、4つの問いは、自然科学に典型的に用いられるものであるが、人文科学・社会科学にも通じている。何かしらの事実や問題を発見し、その起源を探求し、成立過程を解明し、解釈や解決策・予防策をたてる等といった営みになるからだ。


2-2.科学の方法

 科学が何を追究しようとしているか分かったところで、次にどのように追究するのかを考えたい。


2-2-1.自然科学の方法

 最初に自然科学の方法を概観する。

 まず現象を観測して問題を認識することから始まる。ここで観測される現象は、日常の中で気付いて実験を重ねることで現れるパターンから問題を認識することもある。

 問題を認識したところで、結果に関して仮説を立てる。つまり、問題として認識した現象およびその結果について暫定的な合理的な説明を行う。

 そして、その仮説に基づいて、結果を予言する。合理的説明である仮説から、説明通りにいけば結果がどうなるか推測・予想するのだ。

 その予言が正しいかどうかの検証を行う。仮説が示す結論たる予言が正しいかを実験やデータを収拾することで確かめる。仮説を支持する実験結果やデータが得られれば、その仮説は正しいことになる。得られない場合には、その仮説は間違っていることになる。このようにして、科学の知識は正しいものとして確信を得られることになる。そして仮説の検証の過程でまた新しい問題を発見していくこととなる。

帰納法
 科学的方法による追究の例えは次のようになる。ある日街を歩いていてカラスを見たとする。そのカラスは黒く、思い返せば黒いカラスしか見たことがないことに気付く(観測・問題認識)。そこで、「すべてのカラスは黒い(カラスならば黒い)」という説明を考える(仮説)。仮説より「観測されるすべてのカラスは黒い」ことが予想される(仮説から結果の予言)。そして、実験として実際に何百、何千羽のカラスを観察してみる(検証)。その結果、全てのカラスは黒いことが分かり、仮説「すべてのカラスは黒い」が支持されることになる。仮に黒くないカラス、例えば白いカラスが1羽でも見つかったりすると仮説は棄却されることになり、「すべてのカラスは黒い」とは言えなくなる。少なくとも「ほとんどのカラスは黒い」という謙抑的な言い方をしたり例外規定を設けたほうがよいだろう。

 このように様々な個別の現象を観測して実験を重ね、共通項を抜出す、つまり抽象化して、一般的な原理を導くことを帰納という。観測から出発するこの方法は、科学の基本となっている。


 しかし、科学はまず観測ありき帰納的なものだけではない。正しいとされる仮説が多く積み重なってくると、それを統合したり、応用することで理論が構築される。つまり、理論は、仮説や法則を組み合わせることで、これから行われる実験や現象に対して予測を行うことのできる体系である。理論に基づいて結果を予測する。そして、その予測が正しいかを実験して検証する。検証結果が予測通りならば理論が正しいことが分かる。予測と異なる結果が出れば、理論が間違っていることが分かる。演繹法

 例えば、ダーウィンの進化論が挙げれられる。まず「すべての生物には、大多数とは異なる形質を持つもの、つまり変異が存在する」ことに注目する。さらに、「生まれたすべての生物について、生き残り子孫を残すことができるわけではない」こと、「各々の変異によって子孫を残す割合には違いがある」こと、そして「地域などの環境の違いがあるため、子孫を残しやすい変異は地域などによって違う」ことを考慮する。これらの事実から「生物は1つまたは少数の共通の祖先から、事ある特徴と性質を持った複数の子孫へと分岐する」という理論を構築した(理論)。そして、この進化論に基づけば、「進化の途中にある化石がある」こと等、様々な予測ができる(予言)。後は予測が正しいか否かいを証拠を集めて確認していく(検証)。大筋で正しいことが分かったが、論争や科学技術の発展を通じて、進化論は修正されながらも正しいものとして科学界では認知されるようになった。

 このように一般的な理論(的仮説)から、個別の結果を予測、導き出すことを演繹という。理論上は間違いがなさそうに見えても、検証によって予測と合わないものが出れば、理論は修正される。修正は理論の構成だけでなく適用できる場合の限定等様々である。


 なお、帰納と演繹は、相互に逆向きの論理の流れになっているが、どちらが優れているということはない。科学は両者を組み合わせることで発展していくし、現象の種類によって使い分けされているだけである。
 そして、検証され実証された仮説や理論は、条件を満たせば、誰でもどこでも再現できることになる。


2-2-2.社会科学の方法

 これまで自然科学を中心に科学の方法を述べたが、人文科学・社会科学も細かい所で違いがあっても大筋の思考方法・検証方法は類似している。

 社会科学は、データを集めて統計学を活用して数字で判断できるように統計処理を行う。これは社会科学が自然科学のように主観が入らず客観的であることを目指しているためである。よって、社会科学も自然科学と同じ方法論が使えることになる。つまり、次のような過程で行われる。何かを観察することで、問題を認識する。それに対しての合理的説明として仮説を立てる。それが正しいかどうかを検証する。

 ただし、自然科学と決定的に異なる点は、問題認識のときに解釈が入り込むことだ。自然科学ならば、物体の運動等は誰が見ても同じであり、仮説や理論構築も立てやすいし、実験による検証も行いやすい。しかし、社会科学では、観察して発見した問題認識に対して仮説を構築するときに主観が入り込む。

 たとえば、報道でも「日本は官僚国家である」とよく言われる。官僚国家は、国民から選挙で信任された代表たる政治家が主導するのではなく、民意とは無関係の試験で選抜された官僚が主導して国家運営を行うことを意味する。これは、国民が自己統治する民主主義の原則に反することになるので、確かに問題である。だが、「日本は官僚国家である」ことは真実なのだろうか。予算に関して財務省の権限が強いとか、官僚が政治家に反対するとか、様々な事実を指摘して官僚国家である等とされることがあるが、一部分を切り抜いて焦点を当てることで徒に誇張していないだろうか。そうした事実があったとしても、それだけで政治家でなく官僚が主導していると結論付けることは、無知蒙昧な者の与太話ならまだしも学問的・科学的に妥当性があるのだろうか。社会科学
 そこで現象を観察した結果としての「日本は官僚国家である」という仮説が正しいことを証明するのに、官僚が主導する内閣提出法案と国会議員が主導する議員提出法案の数と成立割合を調べることにする。民主主義を標榜するからには、官僚国家とはいえ政策実施には国会で法律を通す必要があり、官僚国家ならば官僚が主導する内閣提出法案が優勢になるはずだからだ(結果の予言)。また、仮説「日本は官僚国家である」それ自体を直接観察する方法が思いつかないので、それを観察可能な形に変形する必要がある。これからも分かる通りある現象を観察して仮説を立てる際にも「解釈」が入り、さらにその仮説を検証するための観察する事実の選定も「解釈」が入ることが分かるだろう。これが自然科学、たとえば物理ならば、物体が等速直線運動を行うということは、移動距離と時間を測定していけば確実に観察できるのと異なる。
 さて仮説検証を行うと、日本国憲法に改正して以来、内閣提出法案の数が議員提出法案のそれよりも一貫して多い。また成立率についても内閣提出法案は議員提出法案よりも一貫して高い。よって、「日本は官僚国家」であるという仮説が支持される。これは各国会会期の法案について帰納法的な方法で仮説検証を行っていることが分かるだろう。

 なお、仮説が支持されると述べた理由は、「日本は官僚国家」であるという仮説そのものを直接証明したのではなく、仮説の検証を行うために観察可能に読み換えたものが証明されたに過ぎないからだ。このように自然科学と異なり社会科学の仮説や理論おほとんどは完全に正しいと証明することは難しく、支持できるとか、間違いではないとか、控えめなものになりやすい。


 そこで気を付けてもらいたいのは、解釈が入り込む上に、証明が完全になされていないものが多いから、留保付で受け止めるべきものであると同時に、証明ができていないのだから全く役に立たないと考えるべきでないことだ。世の中では不確実なことだらけだが、何かしらの決断をしながら生きていかざるを得ない。そして決断には、考える指針が必要である。理論や仮説を金科玉条の如く妄信することを避けるべきなのは当然であるし、自分に都合の良いデータを集めて牽強付会の主張をすることに対して気を付けなければらない。しかし、自然科学的な正しさを示せていないことだけを以て何もかも無暗に批判・否定することも慎まなければならない。


 また演繹的理論モデルも社会科学で用いられる。つまり、何かしらを最初に大前提として仮定し、そこから導かれる結論や事象を予測するのである。演繹的理論モデルの例として、経済学を始めとして社会科学では、最初に「人間は合理的に行動する」と仮定するものが多い。ここでいう「合理的」とは「目的を最も良く達成できること」という意味で捉えてもらいたい。そこで株式投資について考える。株式投資を行う「目的」は「利益を最大化すること」だと設定できる。そして株式投資において合理的に行動することは、「利益を最大化することが最も良く達成できる行動」であるから、「値上がりが見込める銘柄に投資する」ことが合理的な行動といえる。したがって、株式投資において、値上がりしそうな銘柄に投資するというモデルが出来上がる。そうすると、会社の財務・運営状況等が分かれば、人々がどの会社の株式を購入しようとするかが予測できるようになる。つまり、演繹的理論モデルにおいては、手段たる資源や目的たる理想が分かっていれば、人がどのように行動するか予測することができるようになるのである。

 言うまでもないが、演繹的理論モデルでも仮定の置き方に「解釈」が入る。上の「合理的」であるという例でいえば、設定した「目的」が妥当であるのか、恣意的過ぎないかという問題がある。そもそも「人間は合理的に行動する」という仮定自体に無理があるという批判もある。人がどのように行動するのか本当に分かるのか、たとえ「目的」が分かっても人が常に「合理的」に行動するとは限らないことは、誰もが思うことである。つまり、「現実」に合うモデルではないという批判である。
 この批判はもっともであり一理ある。しかし、そもそも我々が認識する「現実」とは1つの「解釈」である。「現実」を説明するためには否応なしに「解釈」せざるを得ない。つまり「解釈」なしには「現実」を認識できない。「解釈」とは、複数の事実を併せて1つの矛盾のない(少ない)結論を導くものである。単に1つ1つの事実を指摘しても「現実」を説明したことにはならない。それは先の「日本は官僚国家である」という仮説からも分かるだろう。「日本は官僚国家である」という「現実」は、それ自体観察することができない。その「現実」を説明するために、「内閣提出法案は議員提出法案よりも、提出件数が多く、成立率が高い」という事実を提示して説明したのである。さらには「議員の官僚出身が占める割合」等を指摘することで様々に補強していくことこもできる。いずれにしても「現実」を説明する仮説・結論に対して「解釈」が入っていることが分かるだろう。このように「解釈」を介さない、ありのままの「現実」に立脚した説明とは、説明できない説明なのだ。これは「現実」を説明するために説明しているのに、説明できていないという点では、「非合理的」な説明ともいえる。このように「現実」には「解釈」が否応なくつきまとうが、可能な限り主観を排して客観的で、価値中立であろうとするのが科学である。この意味でも「現実」は1つの「解釈」であるのだ。
 とすると、「現実」に合うモデルではないという批判に対しては、社会科学は1つの有り得べき理想的な状態を示すものだと反論できる。そのことから現実が理想的な状態からどれだけ乖離しているか、どこで躓いているかを分析する指針になるとともに、新しい観点を提示するものといえる。
 

2-2-3.人文科学(人文学)の方法

 人文科学(人文学)でも観察から始まる。現象や事実を観察することで、何かしらの疑問を持ったり発見をしたりするのは自然科学や社会科学とも同じである。そして、その疑問や発見に関して資料や証拠を集めて、ひたすら記述していく。そして、記述して出来上がったものを解釈して、結論を示すことになる。
人文科学
 例えば、伊藤博文と朝鮮併合について考えたい。朝鮮半島では、伊藤博文を暗殺した安重根は英雄であるとされており、日本では大東亜戦争に敗れてからは、明治以降、特に植民地支配に関連する歴史はまるで暗部のように余り語られなくなった。または極端な自己肯定や自虐に走る場合が多い。しかし、資料を集めていくと、伊藤博文はどうも朝鮮半島にある国が主張するような帝国主義の代表とはいえないのではないかと思われる。
 まず、当時の日本においては、伊藤博文はかなり開明的であり、国際情勢に明るい方に属す。長州藩士時代に密航してロンドン留学をし、岩倉使節団でもアメリカを見て色々学んできた。大久保利通亡き後は、プロイセンにも留学して欧州各国を見聞して明治憲法制定に尽力した。明治憲法は、今の価値観から見ればかなり保守的・強権的で遅れたもののように感じられるかもしれないが、当時の欧米列強の憲法と比較してみてもそこまで常識外れたの憲法ではない。若い頃は木戸孝允にたしなめられる程に理想主義的で急進的だったが、政府中枢に入って在野勢力を抑えながら国家運営をしていく中でかなり現実路線になっていく。そこで明治憲法制定時にはプロイセンのように国家権力が強い体制で開始して、徐々に民主主義の代表たる英国の政党政治に移行することを考えていたらしい。民衆が民主主義とは何か、自由とは何かを学習し自覚しなければならなず、そうした意識が醸成されるまでは、国家主導は必要なものと伊藤は考えていたのではないかと推察される。現代でも民主化した国を見ても政情不安定でクーデターが起きたりして民主主義政治を実行することの難しさは理解できよう。さらに、つい20年前まで江戸幕府の封建社会で暮らして来た者が、西洋の概念をろくに咀嚼せずに言葉だけを捉えて暴れ始める危険は、今の日本の感覚では理解しにくいかもしれないが、過小評価してはならない。また国際連合もなく弱肉強食の帝国主義時代においては、国内がそのように荒れると欧米列強に食い物にされ得るため、そのような混乱は必ず避けたいものだっただろう。民衆の手によるものではない上からの憲法だと非難されたとしても、現実的な手段であったと思える。そうした背景の中、藩閥政治で開始した帝国議会で、伊藤博文は内閣総理大臣を歴任しつつ、日清戦争という近代戦争を経験しつつ、立憲政友会という民党をつくり民主主義政治を徐々に整備していった。帝国議会の表舞台から退いてからは、日露戦争を回避しようとしたり、巨大化する軍部を抑制しようと努めていた。
 そして伊藤博文は初代韓国統監に就任する。日本の内閣総理大臣を始めとして数々の要職を歴任し、明治天皇から最も厚い信頼を得ており国内での権力は絶大であった者が、当時の感覚では二流国の官庁の長を務めることの意味は大きい。基本的に、会社でも社長は会長にはなっても、子会社の社長にはならないものだが、伊藤博文は自らその任に着いた。そして統監として日本が大韓帝国にあれこれと口を出す形で近代化を進める。伊藤博文としては、当初韓国の国力が独立国としての富国強兵ができるまでの保護国化と考えていた。つまり、朝鮮併合には反対であった。それは朝鮮併合による日本からの出費もさることながら、清朝とは異なり同質性がある朝鮮人ならば近代国民国家が樹立できると考えていたからだ。伊藤は韓国首脳部や皇帝に対して独立国として一人前になるように厳しく述べてきた。日本が韓国の予算に金を出すのも韓国のためではなく日本の国益に叶うからであり、それは韓国にとってよくないから早く独立国としてやれるように精進せよと注意していた。
 しかし、当時の韓国は小中華意識(中華文明に近いほど偉いが故に、日本よりも朝鮮の方が中華に近いから偉いという考え)から抜け出せず、何百年と見下してきた日本に口出しされるのが気に入らず、また政府は腐敗していたため、策謀をめぐらす皇帝や首脳部は有効な手立てを打てなかった。一方で日本国内では、自立できない韓国に対して日清・日露戦争で大量の血を流していたこともあり、朝鮮併合派が沸き立っていた。伊藤博文が統監にいることによって、即時併合にはならなかった。
 こうした中、朝鮮独立運動の義兵闘争が活発化し韓国政府が上手く機能しないことが続くと1909年には伊藤博文は併合に異議を挟まなくなり、統監の職を辞する。なお伊藤博文は、朝鮮併合後の未来としては、朝鮮人による自治を考えていた。だが、ハルピンで伊藤博文が安重根に暗殺されると、併合反対や朝鮮自治の主導者が消えたことになる。つまり、今まで強硬派や併合派を抑えていた絶大な権威を持った伊藤博文という錘がなくなると、陸軍主導の朝鮮併合とその後の植民地政策がとられていくこととなった。
 以上の事実関係から、伊藤博文は現代のような初代内閣総理大臣、立憲政友会初代総裁、そして初代韓国統監という事実だけでなく、近代日本の礎を築いたという正当な評価(解釈)を今一度受けるべきではないだろうか。これは同時に何かしら反対・抗議する場合には、対象を正確に絞らなければ、機会を逃し続けば、事態は悪い方へ加速していくという教訓を示唆している。それをすると、朝鮮半島を刺激するという点は政治的配慮としては有り得る話だが、学問の歴史としてそうした配慮を行うことは事実解釈を歪めることになる。()


 このように人文科学では、資料を集めて批判的に読み解き記述し、それを解釈する。社会科学に増して主観が入り込む余地があるのが理解できよう。
 なお、社会科学も必ずしも統計処理(つまり定量的であるという)するものばかりではなく、限りなく人文科学のような記述的(つまり定性的であるという)なものもあるので、綺麗に人文科学と社会科学の2つに分けられるのではく重なる部分は多い。

 また、観察と記述を主にするのではなく、抽象的な知的概念を主に扱うものもなる。哲学や道徳・倫理等でよく使われる。たとえばある事件が起きると、何かしら示唆をするものがある。悲しい事件に、幸いない事件様々であるが、そこに目には見えずとも、確かに人間に社会に投げかけてくる問題や感情がある。こうした抽象的な概念に対して、実質的な意味を与え、意味づけをするのも人文科学の持つ範囲である。知的概念を扱う場合でも、事例を観察・記述することを過程に含むが、抽象的な概念を実質的意味に解釈していくことに重点が置かれる。


 

2-2-4.自然科学・社会科学・人文科学の比較

 人文科学と社会科学を比較すると、社会科学の方が自然科学の方法論を真似ている分、検証も行いやすく、より客観的のように見える。つまり、人文科学が記述を解釈を行うことが主なため、何かしらの教訓や指針を示すことはあっても、基本的には一回性のものである。それに対して、社会科学は仮説を立てて検証するという自然科学的な方法論が取られるので、再現性があり、より明確で緻密なものになっている。
 しかし、社会科学の理論モデルは自然科学と異なり、条件の設定が困難である。社会は様々な人や要因で動いており、それを明確に過不足なく特定することは容易ではない。加えて自然科学のような実験も行えないものが多い。経済政策でも理論に基づいて色々予測して、検証するために実験的に政策を実行してみた場合を考えてほしい。仮に上手くいけばよいが、実験途中(政策実行中)に理論不備が露呈し、失敗して多くの人の生活を破壊してしまったら取り返しがつかない。このように社会科学は倫理的にも実験できないものが多い。そうであると、社会科学にどれだけ再現性があるか疑問にになる。条件さえ設定できれば、誰がどこでやっても再現できるのが自然科学であるが、その観点からすれば、社会科学では、条件設定がそもそも非常に困難な上に、再現性にも疑問があるものが多く、人文科学と大差ないことになる。
 さらに再現性の問題で言えば、社会科学は社会を研究するものだから、アメリカ社会では当てはまり得る理論モデルでも、制度も文化も思想も意識も異なる日本社会でどれだけ有効なものなのか疑問が残ることが多い。海外発の理論モデルを無批判に受容したりすることなく、日本社会を人文科学的・歴史的な観点から読み解き直した結果、理論モデルが適用できるのか、修正が必要なのではないのかを判断しなければならない。その証拠を都合よく集めて無理矢理当てはめて、それらしく体裁を整えていないかということは常に考えておく必要がある。

 発展速度にも顕著な違いがある。自然科学では解釈という主観が入り込む場面が非常に少ないので、方法論のサイクルが速く回っていく。対して、社会科学は解釈が干渉し、検証も意味のある形で行うことが困難なため、サイクルが回るのは遅い。人文科学にいたっては、解釈が主になるのでサイクルは更に遅くなる。こうした発展速度の違いも各々の科学としての特徴が見られる。



2-3.反証可能性

 自然科学・社会科学・人文科学について方法論を見てきたが、ここで1つ疑問を持った者がいるかもしれない。実験や観察によるといっても、全ての場合を調べ尽くすことなど現実的に無理ではないか、無理であるからにはこの世に正しいと確信できる科学的知識はないのではないか、というものだ。この疑問はもっともであり、実証されたもののみが正しいと考えると、厳密な意味で正しいとされるものが皆無になる。この世の全ての場合を調査することは現実的に無理なのだ。カラスは黒いといっても、世界中のカラスを1羽残らず調べた者はいない。それならば科学の正しさをどう担保することができるのだろうか。

 そこで、科学では間違う可能性があることを要求することになる。全ての場合を調べることはできないのだから、ある事態が生じたら、または生じなかったら、その理論は間違っていることを予め提示しておくのだ。間違っている可能性はあるが、今現在その可能性が実現していない、つまり間違いである証拠が発見されていないので、この理論は(今現在暫定的に)正しいとい言えるという論理だ。「カラスは黒い」というのは「黒くないカラスの発見」によって間違う可能性がある。完全に実証できないゆえの苦肉の策的なものに感じられるかもしれないが、科学の歴史を鑑みて、今まで正しいとされてきたことが新しい概念や発見によって覆されてきたことを考慮すると、妥当なことが分かるだろう。このような間違う可能性があるという条件を満たすことは、反証可能性といい、科学の必須のものである。
 反証可能性について、アインシュタインは「もし引力ポテンシャルに起因するスペクトル線の赤色偏倚が存在しないとすれば、一般相対性理論は支持できないであろう」(ポパー『果てしなき探求―知的自伝<><>』)と述べたことが最も分かりやすい。この文言の物理学的な意味は分からなくてもよいが、それが示唆する反証可能性への態度が重要である。アインシュタインは、ある事態が生じなければ自分の理論は間違っていると予め自分で提示しているのだ。これこそが科学者または学問を追究する者に必要な態度といえる。

 しかし、自然科学のような反証可能性を求める厳しい態度を社会科学に適用すると、社会科学は学問として崩壊する。自然科学よりは反証可能性の態度を緩めざるを得ず、またどの程度厳格にするかは難しい問題である。たとえば「人間は合理的に行動する」という仮定から始めたものは、人間が合理的に行動しない事例は事欠かないので簡単に反証できる。だが、「人間は合理的に行動する」という仮定から様々な知見が得られているので、簡単には放棄できない。いずれにしろ、反証可能性をどれだけ厳しく要求するかという問題をはらみつつも、社会科学においても反証可能性が求められる。
 人文科学は、解釈の問題が大きいので、反証可能性の埒外にあるものが多い。とはいえ、歴史にしろ何しろ依拠する資料や事実が無かったり、捏造であれば、その解釈は訴求力を失うだろう。

 反証可能性を裏側から見れば、反証可能性がないような形で科学的な主張はしてはならないことになる。そもそも全ての場合を調べることは無理であり、絶対に間違う可能性がない理論は存在しないことになるのだから当然である。超能力の存在は物理法則から外れたものが多く、その意味では現代自然科学の範囲外にある。もし超能力があると主張するならば、自分で超能力が存在する証拠を提示しなければならない。対して、自然科学側は超能力と呼ばれているものが、単なる物理法則の内にとどまることを証明してその証拠を崩したり、誤魔化しができない形で再現実験を行う等して、否定する。しかし、現状を見ると、自然科学側の反証に対して、超能力者は様々な言い逃れをして頑なに超能力を主張する。これでは反証可能性がないので科学の分野に入らない。つまり、科学として相手にされない。(※※)

 科学であるからには、大なり小なり反証可能性が求められる。実証したと思えたものも反証されれば、謙虚に理論仮説を修正・破棄する必要がある。同時にそれ故に、科学が万能でないこと、限界があることも真摯に受け止めておく必要がある。



2-4.まとめ

 以上のように高校での各教科の知識は、大学で自然科学・社会科学・人文科学で一応正しいまたは通説とされるものの基礎的な部分を学んでいることになる。そして入試問題もそうした基礎的な知識を運用できるかを問うていることになる。つまり、問題文によって条件が設定されて、既存の理論や仮説からどのような結果や結論が導けるかを問うおり、これは基礎的な理論仮説や解釈が理解できて適用できる場面を知っており、方法を身に付けているかを試しているのである。特に理数系は科学的方法論が確立されているので、思考力を試しつつも客観的な問題もつくりやすい。対して文系の社会では、科学的方法論が自然科学程強固ではなく、解釈に幅が生じやすく客観的な問題がつくりにくい。それゆえに、センター試験や私大入試でも選択式の問題も正誤や並べかえ語句挿入といった単純な事実の暗記が勝負になるような問題しか出ない。しかし、東京大学を始めとする本格的な論述問題を課す難関大学の社会の論述問題を見てもらえば分かるが、教科書レベルの知識を前提としつつ、問題文に与えられた条件から事実をどのように解釈して再構成するかの思考力を問う問題もある。
 文理問わず、難関大学の入試は、基礎的な科学的方法とその知識に依拠している。入試問題を解く上で必要な知識は、教科書等を読んでいると、結論ありきで記述され得ているように感じられるものも少なからずあるだろう。そうしたものもこのような科学的方法論によって厳しい検証に耐えてきたものであり、一旦正しいものとして丸覚えてしまい、問題演習でどのような場面で利用できるのかを体験することで、その意味が理解できたりする。逆に、科学的方法論に依拠しているのだから、教科書の説明が不足していると思えば、どこに疑問を持ち、何を観察して、どう考えて仮説を立てて、検証したのかに思いを巡らしてみると、自分なりに納得するものが見つかるかもしれない。

 また、「観察→仮説→検証」の科学の基本的な方法は、何も学問の場だけの高尚なものではなく、日常生活でも多かれ少なかれ行っている。ゲームでも上手くいかない場合に、上手くいかなかった結果を観察して、自分なりにどうして失敗したのかを分析して、そこから上手くいくように仮説を立てて、実際に実行して検証して試行錯誤しているはずだ。運動でも同様だ。このように科学的方法を意識的に、正確に行えるようになることは、何も勉強だけに役立つわけではないことも分かるだろう。

 さて、志望大学に必要な入試科目に絞ることなく、高校の教科をすべて学ぶことの意義と大切さ、そして入試科目に絞って勉強して大学に入ることの愚かさを喚起した。さらに、大学での学問と高校での教科の関係を概観するとともに、学問・科学とは何かについて論じた。多少理想論的な立場もあり、多くの受験生には耳が痛かったり受け入れがたい意見もあったろうが、本来的な意味を見つめ直してもらいたい。私は、少なくとも国公立私立問わずセンター試験で5教科は受験してしかるべきだと考えている。とにかく、受験生は1年では入試に必要な科目を勉強するのに手が一杯だろうから、受験勉強に集中すべきだろうが、大学入学後は幅広く学んでもらいたい。 



 受験勉強を始める前に
1.高校の学習と学問の分類
2.科学的とは―入試との関係―
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(※) ここではあえて解釈または評価が真っ二つに分かれているものを例として選んだ。あまりにも「今」のみに焦点を当てたもの、教科書程度の知識すら危ういのではないかと思われるものも、ニュースや議論で散見される。戦後の歴史の見直しを提起する勢力も湧いているといわれる昨今、日本が近代国家になっていく明治時代というものがどのようなものであったのかを、周りに流されることなく、資料を第一とした学術的な面から自分で確かめていくべきかと思った次第だ。

 下にある伊藤之雄京大教授の書籍は、非常に分厚いもので、高校レベルの日本史の知識が不十分だと読み込むのはやや難しいかもしれない。しかし、要所で背景等もしっかりと指摘しているので、読むという気概があれば無理ではないレベルかと思われる。新書程度の厚さで読みたいのならば、伊藤氏の弟子にあたる瀧井一博国際文化研究センター教授の書から入ってみるのもよい。いずれも伊藤博文を肯定的に評価している書籍だが、資料に基づいたもので、バランスがとれたものと私は感じている。

   ・『伊藤博文 近代日本を創った男』 伊藤之雄 講談社
   ・『伊藤博文 知の政治家』 瀧井一博 中公新書



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(※※) 「存在すること」の証明は1つの事例を提示するだけで可能なのに対して、「存在しないこと」の証明は、全ての場合を調べられるわけではないので、実質的に不可能になる。したがって、存在すると主張する者がその証拠を提示するのが原則であり、それを否定する者はその証拠が間違いであることを証明すればよいことになる。
 存在を主張する者が提示する証拠は反証可能性になる。その証拠が否定されれば、論拠を無くすことを意味するので、主張は破棄または修正される。このように科学は常に反証可能性を満たした形で主張しなければならない。
 なお、現代科学が超能力を「科学」として真面目に受け止めてないだけで、新しい発見等の何かしらの要因によって将来科学の範囲になることまでは否定しない。しかし、その可能性は僅か、または長い時間を要するだろう。


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