受験勉強法学 Examics

すべての教科に通じる論理的思考については、LAADを参照せよ。[説明詳細]

■勉強法コラム

受験勉強を始める前に1:高校の学習と学問の分類

 受験勉強も大学受験に絞った勉強であることから、最初に大学で学ぶ内容が高校での内容にどのように関係するのかを概観して、勉強そのものの意義を述べたい。次に科学的であることと受験勉強の効用を概観する。

 なお、ここでの学問の分類や科学の定義等は、1つの考え方である。現代では学問がかなり細分化されており、私自身が全てを網羅し、かつ皆が納得できるような説明を行う能力を有していない。また科学という概念も定義が定まっているわけではなく、文脈で意味にかなり幅がでる。したがって、ここでは学問と科学の全体の大雑把な考え方として捉えて、大学入学後に各自の専門に合った概念や分類を改めて習得してもらいたい。


1-1.科学の種類と分類

分類1
 我々の生きる世界には、何よりもまず自分がいる。そして、他者がいる。自己と他者は共同体を形成して社会や国家を構成する。さらに、人間と社会は自然環境の中で形成されている。学問とは、これら人間・社会・自然を深く考察するものである。
 
 ここで自分という人間を中心にして考えた場合、学問の考察対象は2つに分類することができる。
 考察対象の1つは、他者およびそれによって構成される社会である。すなわち、人間および人間関係であるから、つまるところ人間である。これを人文科学という。
 もう1つの考察対象は、自然に関わる現象である。これを自然科学という。

 さらに人文科学は、人間自体を中心に考察するものと、人間関係を中心に考察するものに分けられる。
 人間自体の考察は、狭義の意味で人文科学と呼ばれる。または、単に人文学とも呼ばれることがある。
 そして、人間関係の考察は、社会科学と呼ばれる。

 また自然科学は、生きているモノ、つまり生物を考察するものと、生きていないモノ、つまり非生物を考察するものに分けられる。
 生きているモノの考察は、生物科学と呼ばれる。
 そして、非生物の考察は、物理科学と呼ばれる。


 人文科学、社会科学、自然科学と異なり、現実世界から切り離して完全に論理的な整合性のみを考える学問として形式科学というものもある。形式科学は記号と規則に基づいて推論を重ねていく抽象的なものになる。まず公理という推論の最初の大前提となる絶対的で自明な仮定を設定する。その公理を前提にして論理的な推論を重ねることで、AはBであるといった命題を証明する。そしてその正しい、つまり真とされた命題は定理となり、公理の中では正しい結論として扱えることになる。
 したがって、形式科学は公理を最初の前提として仮定しているので、他の科学と異なり公理を前提とする範囲では解釈に余地は生まれず、必ず正しいものとなる。

 この公理の中では定理が常に正しいという性質は、他の科学に対して重要な意味を持つ。なぜならば、他の科学が導く定理や理論を言葉でなく数学的に表現できれば、定理や理論が導く結論は常に正しいことになるからだ。科学では、特に自然科学に顕著であるが、実験や観察を繰り返すことで、ある傾向や法則性が見えてくる場合がある。それを理論として、「この場合はこうなる」と「あの場合はああなる」という言葉だけによる記述するだけでは、曖昧になりがちだ。仮にその理論を数学的に記述することができれば、論理的な正しさを証明できることになる。
 もちろん、理論の論理自体は正しいとしても、科学の発展によって理論は刷新され得る。実験や観察がより厳密になったり、新しい発見がなされて、理論の最初の大前提となる仮定が崩れたりするためだ。あくまで数学・論理的な正しさとは、最初の前提を正しいとした場合にのみに成立するだけである。その最初の前提の正しさ自体は、自明なものとしているだけで、必ずしも最初の前提の正しさを保証するものではないからだ。実験や観察を基にする科学においては、最初の大前提が実験や観察を基礎にしているが故に、理論が大きく書き換えられることが多いのである。


 典型的なのは物理学だが、数学的表現に親和的な分野ならば、数学での記述によって正しさを証明できる。しかし、多くの科学は必ずしも数学で綺麗に記述できるものばかりではない。そこで数学になじまない分野でも、数学を、つまり厳密な正しさを、利用できないかを考える。このとき統計学が活躍する。 統計学によって、物事は考えやすくなったり、観測した大量の事象や実験結果を数学的に処理できるようになる。そして、法則性・規則性を発見できるようになる。こうして、そのまま数学によって記述し難い、またはできない分野においても、数学的に処理できる。たとえば、薬品の効果の測定等のように、必ずしも自然科学で数学になじまない分野でも、数字をもって検証することが可能となる。さらに社会科学の分野でも、様々な現象を数字にして統計的に扱うことによって、自然科学と類似した方法での検証できるようになる。
 ただし、統計学が持つ数学的な正しさは数学よりも信用に値しないことに注意が必要だ。数学自体は、最初の仮定が正しい場合に、理論上の論理的整合性を保証するだけだが、その数学を応用する統計学も完璧なものにはなり得ない。実験の方法や観測する事実の収集方法によって結果も変わり、その上で統計処理された結果についてどのように解釈するのかといったことも問題になる。このように統計学の危うさは、「嘘には3種類ある。嘘、大嘘、そして統計」という諺とともに、常に忘れてはならない。



1-2.大学準備段階としての高校での学習の重要性


 学問は人文科学・社会科学・自然科学の3つに大きく分けられることが分かった。そして形式科学が全ての学問を支えている。
 日本では文科系か理科系かを選択して大学入試に挑む制度となっているため、日本の高校では文理選択をして各々に特化することが多い。通常の学問の分類と高校での文理選択の対応は、人文科学・社会科学を主に扱うのを文科系(文系)自然科学・形式科学を主に扱うのを理科系(理系)となっている。

 しかしながら、これは自分の興味のある分野や大学進学に必要な分野のみを勉強さえすればよいということを意味するわけではない。大学では専門性を身に付けるだけではなく、社会で生きていく市民として多様な物の見方と教養を身に付け、人間性を磨くことが目的となっている。自分のよく知っている分野は知らない者に教え、そうでない分野は知っている者から教えてもらう。こうして自分なりに物事を考えて、社会で生きていく上で必要な意思決定を行い、他者と相互に協力しながら生きていくことになる。高学歴である大卒者は高卒で就労する者に比べて、高い専門性と幅広い見識の2つが重要な要素となっている。
 とすると、大学のための準備段階にある高校において、受験に不要な科目を勉強しないという選択は有り得ないことが理解できる。専門分野だけでなく幅広い学識を付けることを放棄するならば、専門高等学校や専門学校の課程を強化することで十分である。また最低限度の見識の広さも疎かにすることは、大卒者が持っておくべき重要な1要素が欠くことになる。つまり、半大卒者または高卒者に毛が生えた程度のものにすぎないのである。このような半端者が、高学歴またはエリートとして扱われるのは、日本にとって大変不幸なことであり是正されるべきと私は思う。以上より、入試科目に必要ないことを理由として数学・理科や国語・社会科を勉強しなかったり疎かにすることは、本来大学で学ぶに値する段階ではないことを自覚しておかなければならない。()


 さて、文系だから、理系だからといって、入試科目以外の勉強を疎かにしてよいことにならないことが理解できたところで、高校で学ぶ科目が人文・社会・自然科学でどのように必要とされるか概観してみたい。最初に科学として方法論がほぼ確立している自然科学から見ていくこととする。次に自然科学を範とする社会科学、そして最後に人文科学(人文学)を見る。
 なお、一般に「科学」というと、再現性と客観性が認められる自然科学のみを指す場合があるが、ここでは「科学」を全ての学問を含むものとしている。つまり、知をどのように扱うか、すなわち方法とルールがある程度定まっているものである。各人が思い思いの方法で勝手に研究したところで、万人に理解できるものにならない。結局、科学が科学たり得るのは、研究について明示的・体系的な方法やルールがあるからである。したがって、学問である以上「科学」と見做して、その射程をある程度広くとっている。



1-2-1.理系:自然科学・形式科学

分類2
 理系、つまり自然科学を学ぶ者にとっては、高校で履修する物理、化学、生物、地学が直接的に役に立つことは直感的に分かるだろう。自然科学は大きく分けて非生物を対象とする物理科学と、生物を対象とする生物科学に分けられていた。そして、物理科学の中では、物理学、化学、天文学、地球学に分けられている。

 物理学は、自然界の現象と性質の法則を研究するものであるから、物理科学の中でも中心的な役割を果たすことになる。これは高校では「物理」で学ぶことになる。

 化学は、物質の構造と性質、そして物質の作用、反応、変化を研究するものであり、高校では「化学」で学ぶことになる。化学において原子、電子や分子の運動、熱現象等が関わってくることから分かる通り、物理法則等を知っておく必要がある。したがって、多くの理系受験者が「物理」と「化学」を大学入試で使用することが理解できよう。

 天文学は宇宙や太陽系について研究し、地球学は地球について研究するが、この両者は高校で「地学」として学ぶことになる。天体の運動等を考えるのであるから、物理学が非常に重要になってくる。また、地質や化石等は生物学や化学の知識が必要になってくる。

 生物科学はその名前の通り、生物学として生きたものを研究するとなっているが、高校では「生物」で学ぶこととなる。ただし、生物にも細胞まで微細なものになるので、化学の知識が必要になってくる。

 こうした自然科学を基礎として、現在の科学技術は成立しており、我々の生活を豊かに、そして便利にしている。自然科学の更なる発展のために基礎的な研究をするために理学部に進む者と、自然科学の知を利用して具体的な製品や技術を進化させるために工学部・農学部・医学部に進む者がいるが、いずれにしても理系にとっての科学とは自然科学的な知が中心となる。
 無論、文系受験者についても、現代社会では多くの科学技術に囲まれて生活をしており、環境問題やエネルギー問題等で意思決定を行う必要がある。自然科学の知識なしには何も意思決定できない、ニュースも理解できない、といったことになるので、決して疎かにしていいわけではない。

 また理系といっても多くの大学では理科2科目が入試で課されるが、各教科が理科の中でも相互に繋がっていることが分かる通り、必ずしも科学の基礎知識が2分野で足りるというわけではない。例えば、エネルギーについて考えてみたい。エネルギーは物理学では力学的・熱・光・音・原子力・科学的等あらゆる姿に変化する。現代社会においてそれらを主に電気が媒介している。このようなエネルギー自体の全体像は「物理」で学ぶ領域である。そして、エネルギーとしての電気を生み出す主要な方法は火力発電や原子力発電である。火力発電で主に利用される石油や液化天然ガスはその反応によって温暖化を招くとされる二酸化炭素を排出する。こうした物質がどのように反応するかは「化学」で学ぶ領域である。石油や液化天然ガスは化石燃料と呼ばれることから分かるように、元々は生物であり、その蓄積が何億年も前の生物であったことから、その生成過程は「生物」で学ぶ領域になる。また、二酸化炭素による地球温暖化の影響で起こるとされる海面上昇や異常気象は「地学」で学ぶ領域になる。さらに、環境破壊による生態系への影響は「生物」の領域になる。
 このようにエネルギー1つとっても、「物理」「化学」「生物」「地学」の全領域にまたがっており、1つの事象を十分に理解するためには自分の専門分野のみを知っていればよいということにはならないことが分かるだろう(※※)。

 自然科学は数学を基礎として数式で表されるものが多いことは既に述べたが、それゆえに自然科学を学ぶ者は必然的に数学もある程度習得しなければならない。加えて、多くの実験結果を集計して法則を見つけていく上で、統計学も当然必要になる。したがって、理系は高校で自然科学と形式科学を中心にして大学での勉強に備えることになる。
 しかし、これも文系は数学を勉強しなくても構わないということを意味するわけではない。数学は形式科学に分類され論理学も形式科学に含まれていることから分かる通り、論理的思考の良い訓練になる。数学では、記号と数字で抽象化され、論理を積み重ねていくことで結論を得たり証明を行う。つまり、曖昧な言語による表現を極力排して論理によってのみ考えるという練習である。論理的であるということは学問を行う上で必要不可欠なものであり、文系・理系の区別はない。高校数学は、大学の自然科学の勉強の準備以外にも論理的思考力を養うという点でも効果的になっている。そもそも高校レベルの数学は、大学レベルの数学のように抽象度もさほど高くなく難しさも大したものではない。(※※※)また、文系でも社会科学に進む者は、数学を疎かにできない。例えば経済学では数学を活用するし、社会学や心理学等でもデータを処理するために統計学を多用することになる。このように文系にとっても高校数学は論理的思考力を養ったり統計の関係から必要な教科であることが分かる。



1-2-2.文系:人文科学・社会科学

分類3
 文系、つまり広義の人文科学(人文学と社会科学)を学ぶ者は、人間または人間関係について考察するのだから、人間が作り出してきた歴史や公民が重要になることはすぐに理解できよう。人間と社会は今現在に急に全て構築されたわけではない。長い時間の中で徐々に形成されてきた。今までにどのような状況で、どのようなことが起き、その結果どうなり、今現在の世の中や考え方に至ったかを知っておかなければならない。また現代社会がどのように動いているかも知らなければならない。人間およびその関係は社会の仕組みに左右されるからだ。こうした知識なしには、人間や社会を考察することは不可能である。

 日本で生きていく上で当然その成り立ちや何が起きてきたかを知っておかなければならない。日本文化・歴史を知り意義を理解することが日本人に求められる。日本国籍を持っていたり日本語を話すだけでは十分でない。そこで必要となるのが「日本史」である。

 国際化した現代では、日本だけで完結した問題は少ない上に、国籍や文化の違う人との交流も多い。世界各国の大まかで最低限の知識を知っておく必要がある。そこで「世界史」を勉強することが求められる。

 そして、歴史を前提として現代の日本と世界の自然環境や産業、文化が形成されている。これらを「地理」で学ぶことになる。

 また、現代社会がどのような制度を前提に動いているかも知っておく必要がある。「政治・経済」で、こうした政治制度と経済制度およびそれらを規定する憲法・法律を学ぶことになる。これらの制度も歴史的産物であることに注意が必要だ。

 制度だけでなく、善く生きることや善い社会とは何かを考えることも重要である。現代日本では、物質的に豊かになり利便性が高まっている。、ボタン1つで洗濯も即席飯もできるし、漠然と働いていれば生きていくことはできる世の中になのだ。ただ生きていくだけでない、多様な見方や価値判断を大学で学ぶ準備段階として、「倫理」がある。「人間(ヒト)」として生きていくことを考えるのである。

 これらの高校レベルの知識は、大学で人文科学や社会科学を学ぶのに必要となる最低限で基礎的なものだが、自然科学を学ぶ理系にとっても欠かせないものである。現代に生きていく上で常識的なものであり、高学歴を名乗る以上、不知は許されない。


 自然科学が数学を中心に論理を積み重ねることが多いのに対して、広義の人文科学は言葉を中心に論理を積み重ねることになる。そもそも人間は考える時に言葉を媒介にしている。現在、数式のような曖昧性を排除した形で表せる事象は多くなく、そうしたものを語るには言葉が必要となる。そもそも数学の前にも言葉があり、抽象度をさらにあげて結実したのが数学ともいえる。言葉なしには思考もできないし、他者との交流もできない。言葉は人間を人間たらしめている。したがって、言語運用能力を磨く必要性が理解できよう。そこで「国語」である。「国語」は「現代文」「古文」「漢文」に分けられる。

 「現代文」で現代日本語の運用能力を上げ、言葉への感覚を磨く。文章や論文を批判的に読み解くために必要になる大前提となる読解力を養う。また論理だけでは人の心は動かせないことが多いが、「現代文」によって様々な表現や言い回し、文の運びを学ぶことができる。それに人間には感情があるため、必ずしも正論をむき出してぶつけることが良いわけでない。発信者として説得等に効果的なものを学べる。また同時に、受け手として、包み隠した表現や美辞麗句にまみれた表現に惑わされないためのものでもある。

 「古文」で過去の日本語を学ぶ。今と昔とで、感性や風習や表現の相違点や共通点を知ることで内省する。また日本史を学ぶための一次資料を読み解く上でも必要なものである。

 「漢文」でかつての東アジアの共通語であった過去の中国語を学ぶ。日本の書物の多くが長い間漢文で表されていたし、明治維新後も戦後までは確かに強い影響力を持っていた。最近輸入された外来語の多くは音をカタカナでそのまま表すようになってしまったが、西欧から輸入した学問の多くの言葉は、漢学を基礎にして翻訳されてきた。「漢文」は現代の日本語の基礎をなしており、「古文」と同様に日本と日本語を知る上で必要なものとなっている。

 「古文」と「漢文」をまとめて古典と呼ぶが、古典は知識や概念として知っておくだけでなく、直接古典を読むことで、その美しさや音の響きなどを学ぶことの意義は深い。言葉が思考を形作るため、言葉の幅や使い方を豊かにできる。大学に行くということは知的エリートになることなのだから、文系でも数学が最低限できないとよろしくないように、理系でも古典は最低限知っておかないと滑稽なものになってしまう。



1-3.まとめ

分類4
 以上で、高校で学習する各教科が、大学での学問、つまり自然科学・人文科学・社会科学の基礎になることを概観するとともに、文理に関係なくども教科も大学に入る前に全ての者が最低限身に付けておくべきものであることを述べた。

 今一度、高校(それと同等)の教育内容を履修した者に大学受験の資格が与えられていることを考えてほしい。入試科目のみ勉強してその他の科目が疎かになっている者が大学に進学することは本来望ましいことではない。受験生はもう全科目を勉強することは時間的に難しいかもしれないので、不真面目にしてしまった科目については真摯に猛省して、大学入学後にでも少しずつ学ぶようにしてもらいたい。また、まだ時間がある高校1・2年生の者は、早くから受験に必要な科目に絞って勉強するのではなく、誠実に様々な科目を勉強してもらいたい。大学卒業後に研究者になるにしろ就職するしろ、大学は手段であり、目的は高等教育機関で学術を広く深く学ぶことである(※※※)。

 そして、学問を通じて、自然科学によって我々の生活を豊かにして、社会科学によって我々の社会の効率性と公平性を向上させ、人文科学によって人間とは、またその幸福とは、何かを考えていくことになる。


 受験勉強を始める前に
1.高校の学習と学問の分類
2.科学的とは―入試との関係―
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(※) しかしながら、多くの高校生にとって全科目を東京大学とは言わずとも難関大学レベルまで身に付けることは非常に難しいだろう。そこでも最低限センター試験レベルまでは各科目ともに身に付けるくらいの気持ちは持っておくべきだと私は考えている。

 また、大学生になってから教養の授業で専門分野以外も補強すればよいと考える者もいるだろう。しかし、文系ならば国語や地歴、理系ならば数学や理科でセンター試験レベルの問題を解いてみてどう思うだろうか。二次試験に比べて非常に簡単で基礎的なことをやっていると感じるはずだ。すると、大学でその程度の事を勉強するということに対して疑問が生じる。つまり、その程度の基礎的な知識は高校段階で終わらして、大学ではそれを基礎として応用的なものを学ぶべきはずである。よって、理念として、大学の教養で基礎をやり直せばよいという意見はかなり的外れなことだと理解できよう。また、基礎なしに応用を学んでも上滑りしているだけになる。
 さらに、これは私個人の感覚なので事実を正確には捉えてないかもしれないが、大学で基礎のやり直しを真面目に行う者はほとんどいない。多くの者は専門以外の分野は適当に単位をとって終わる(中には専門分野ですら適当に単位をとって終わる者もいる)。しかも基礎をやり直すような真面目な者は、そもそも高校段階で真面目に基礎をやっている者が多い。

 人間自分の不得意なものについては、不要だ無駄だといった過小評価をして自己合理化をはかりやすい。高学歴になることの意味を考えて色々勉強してもらいたい。
 べき論ついでに、私は最低限旧帝大が課すくらいのセンター試験の科目数はこなしておくべきだと私は主張したい。

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(※※) 各知識が広く深くなっている現代社会においては、全ての領域を自分の専門分野並みに理解することは事実上不可能であることは言うまでもない。ここで言いたいのは、自分の専門でどれだけ立派な発見・発明したとしても、それが他分野において影響力は広大で強いものになり得るということである。科学技術が日々の生活に計り知れない影響をもたらし得るのであり、自己の知的欲求に忠実であることだけでは済まされない。それがどういう結果を引き起こすかも想像し対策を受ける必要がある。特に大学は多額の税金が使用されていることからも、社会的責任が発生するのは理解されよう。
 また繰り返しになるが、エネルギー問題にしろ環境問題にしろ、門外漢でも選挙政治を通じて何かしらの意思決定を行うので、最低限の自然科学の知は必要である。

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(※※※)これは私立文系専願者に当てはまることが多い。考えてもらいたいのだが、現在の高校で留年したり卒業できないということはかなり特殊なケースで余程サボったりしない限り起きない。赤点をとっても適当に補習を受けて再試をしてお情け的に単位がとれるという状況だ。真面目に勉強しなくても単位が取れるという状況は、中卒程度の知識でも卒業できるということだ。基本的に文系でも数学IIBは履修することになっているのに、受験科目にないからといってろくに勉強せずに終わらせると、中卒程度の知識ということになる。多くの者が身に付けているはずの知識を欠きながら有名私大に入って知的エリート顔することの滑稽さと悲しさを考えてもらいたい。せめて謙虚であってもらいたい。

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